父親がコロナで亡くなった

LIFE

父がコロナで急死

土曜日の午後、家にいると姉から電話があり父がコロナで亡くなったと連絡がありすぐに市民病院に母を連れて来るように言われました。私は父がコロナに感染していることも知らずにいたので病院に行くまでは何で急死したのか理解出来ずとにかく急いで母を連れて病院に向かいました。母は姉から聞いていたようでコロナに感染していることは知っていたが父の急死にショックを受けていました。説明が遅れましたが父は要介護3で特別養護施設に入所していたので施設からは姉に連絡が行ってました。姉は介護の仕事していて父が入所している施設にも知り合いがいたのもあって姉に連絡が真っ先に入ったようです。病院について姉に聞くと木曜日にコロナに感染したけど症状は軽く食事も取れていたので施設で様子を見ていたのですが金曜日になって少し食欲が落ちてきて土曜日に姉に連絡があり姉が施設に見に行き施設の人と相談し救急車を呼んで市民病院に入院することになりました。入院の手続きをして姉が帰る途中に病院から電話があり容体が急変して亡くなったので戻るよう連絡があったそうです。身内が揃ったところで先生からの説明がありました。先生の説明ではCT撮って治療に入ろうとしてちょっと目を離している間に亡くなっていたそうです。CTの結果では肺が真っ白で肺炎を起こしており誤嚥性肺炎か血栓が肺に入ったか、痰が絡んで痰を切れずに窒息したかで真因は再度CTを撮らないと分からないのでCTを撮るか聞かれましたが撮らないことにしました。先生の話では苦しまずに息を引き取ったみたいです。私が思うには父は家にいた時から痰がよく絡みむせることが多く大丈夫かって思うほどむせていたのでコロナで痰を切る力もなくなり痰が切れずに窒息したんだと思いました。先生の説明が終わり死亡確認をするために父がいるところに行きました。コロナ感染者と言うこともありガウンを着てヘアーキャップにゴーグルにマスク、手袋は2重にして感染対策を十分にして父のところに行きました。父はベッドでマスクをしたまま仰向けで喉が詰まったのか顎が上がった状態で少し薄目が開いた状態で横になっていました。あまりに急な死に感情が追い付いていませんでしたが父の姿を目の当りにしたら悲しく涙が出てきました。ほんの少しの間、身内だけの時間を頂き父と最後のお別れの時間を過ごしました。先生が来て死亡診断をしました。その後に部屋に案内され市内の葬儀屋の連絡先の書いた紙をくれて葬儀屋を決めて引き取りの時間を連絡して下さいと言われました。時間が掛かりそうなので母と姉を先に家に帰しました。コロナ感染者なので火葬場へ直行するものと思っていたのでコロナ感染者も対応してくれるのか不安がありました。コロナの出始めの頃は葬儀屋が感染対策で高額な料金をぼったくっていた話を聞いていたので正直不安でした。まずは以前資料請求した小さなお葬式に電話すると通常の料金にコロナ感染者と言うことでプラス16万円と言われました。次に市内のJA(農協)に電話すると火葬だけ(葬儀なし)で以前に10万円くらいでやった実績があると言われたのでJAに決めました。何時に来れるかと聞くと15分から20分で来れると言われたので看護師に伝えました。そんなに早く来れるものかとビックリしました。30分くらいして父を積んだ葬儀屋さんが玄関で横づけしていた私の車のところに来て一緒に市内の火葬場に向かいました。火葬は日曜日の午後2時から予約してくれてて今日は火葬場の霊安所に安置しに行きました。火葬場に付くと職員の方が出てきて葬儀屋さんと私と職員の3人で棺桶を運んで棺桶がちょうど入るサイズの安置所に入れました。葬儀屋さんから明日の午前中に死亡届を出して火葬の許可書を貰って来て下さいと言われました。何かと手際のいい葬儀屋さんで助かりました。次の日の午前9時に市役所の時間外受付に死亡診断書を持っていくと火葬場使用許可書等の書類を作成するので1時間後に来るように言われました。1時間後に書類を貰いに行き火葬の準備は出来ました。13時45分に火葬場に来るように言われたので母と姉を乗せ少し早めに家を出ましたが火葬場に付くとすでに職員の方と葬儀屋さんが外で待機していました。書類を職員の方に渡して葬儀屋さんから請求書を頂きました。14時前でしたが安置所から棺桶をストレッチャーに乗せるのを手伝い葬儀屋さんはここで退散されました。その後、職員の案内で火葬場に行きました。棺桶の上にお線香を置いて火を付け父との最後にお別れしました。コロナ死と言うことで棺桶の中で感染防止で袋のような物に包まれ顔の部分だけ透明で見えるようになって入っていました。今日は目をつむって安らかな表情でした。職員が火葬炉の中に運び火が点火されました。およそ1時間半くらいかかるそうなので姉は火葬場に残り、母を一旦家に連れて帰りました。家から火葬場までは近くて地図上での直線距離は約1km弱で家のベランダから火葬場の方向を眺めてみました。火葬なので煙が見えるのかと思い見ていましたが煙は立っていませんでしたが火葬場の空を見て父は旅立っているんだなと思いしばらく眺めていました。何度かベランダに行き火葬場の方向を眺めていると結構な量の煙が立っていました。それが父の火葬の煙なのかは分かりませんが煙に向かって祈りました。1時間くらいして母を乗せて火葬場に向かいました。しばらく待機していると職員の方が呼びに来て火葬場に行きました。炉から台が出されて来て骨上げ(骨を拾う)を行いました。職員の方がどれを拾うかを指示してくれて最初の何個かは母と私で同じ骨を一緒に拾いましたが、残りは3人で代わる代わるお骨を拾い骨壺に入れて行きました。最後に頭骸骨を蓋をするように乗せて終わりました。これで火葬は終わり家に戻りました。

初めて親が亡くなってみて思うこと

私はもともと父が大嫌いでした。頭が悪く車どころか原付のバイクの免許すら何回行っても受からず免許取れずにいたくらいの頭の悪さです。私が中学の頃に組の日帰り旅行で1人で参加し名古屋に行き夜に戻ってくるとベロベロに酔っていてしかも顔を殴ら血が出ていて一文無しで帰ってきたあげく家の中でゲロを吐かれ情けない姿を見せられて情けなくなって泣きながら母と一緒に後始末をしました。後で話聞くとぼったくりバーに入って高額請求されてお金持ってないので殴られ有り金全部取られたそうでした。そんなこともあって思春期は父のことは大嫌いでいましたが大人になってそれほど気にならなくはなっていました。何年か前には父が飛行機乗ったことがなかったので乗せてあげようと北海道連れて行ってあげました。それが最初で最後の親孝行でした。それから日にちが経ち一年前に母が父の介護してて父がポータブルトイレから落ちそうになったのを右足でかばったせいで大腿骨骨折し入院してしまいました。母が入院したことによって父の介護をすることになり介護の大変さと母がよく今まで頑張って介護していたことがよく分かりました。父と二人きりの生活が始まり始めの頃は必死だったので頑張っていましたが夜中に起こされ常に父を意識して生活していることに精神的にも辛くなり終わりの見えない生活に死にたいと何度も思いました。精神的にも限界にきていた時に特養の施設に入れることになり父と二人の生活は2ヶ月ちょっとで終わりました。一年前の介護生活は本当に辛かったけど今となっては今まで生きてきた中で一番父と触れ合うことが出来た時間でした。晩御飯を作ると何でも『うまいな、お前料理上手だな』と毎日美味しそうに食べていた姿を思い出します。コロナで亡くなってしまいましたが自力ではトイレも風呂も入れない状態で本人も不甲斐なく辛かったと思います。夜中ベットから起き上がるのにも手すりを持って必死に起き上がる姿は見てて辛くなりました。自分だったらこんなになってまでは生きていたくないって思いました。ここ何年かは不自由な体でしたのであの世では不自由なく動けるようになって快適に過ごしていたらいいなって思います。テレビのニュースでは高齢者で死者が増えている聞いていましたがまさか自分の父がコロナで急死するとは思ってもいませんでした。高齢者にとってはやはりコロナは恐ろしい病気なんだなって思いました。自分もこれから高齢に向かっていく年なのでいつ死んでもいいように悔いのない毎日を過ごして行こうと思います。



コメント

タイトルとURLをコピーしました